創世記18:23−33/ローマ8:22−27/ヨハネ16:12−24/詩編15:1−5
「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」(ヨハネ16:12-13)
今週の木曜日、26日は「昇天日」です。復活したイエスが天に昇られた日で、復活の日から数えて40日となります。復活は必ず日曜日ですから40日目は木曜日になります。そして更に10日、50日目がペンテコステということになります。
復活のイエスが天に昇る、あるいは挙げられることを書いてあるのはルカによる福音書と、その後編である使徒言行録だけです。そしてそのいきさつの詳しい記述は使徒言行録のほうにあります。この二つルカ福音書と使徒言行録は前編と後編なのであわせて「ルカ文書」と呼びますが、復活のイエスが天に昇ること、その時に「父の約束されたもの」(使徒1:4)としての聖霊が与えられるとの予告は、このルカ文書に記されたことなのです。
ヨハネ福音書では「真理の霊」と表現されます。これもまたヨハネ文書に共通です。ヨハネ福音書に3箇所、ヨハネの手紙Ⅰに1箇所出て来ます。ただ、手紙のほうは反キリストの勢力との区別のために用いられているので、本来の意味とは違います。すると「真理の霊」はヨハネ福音書の中でだけ語られていることになります。そしてこの霊の特徴、つまりヨハネがどういうときにこの言葉を使うのかを見て見ると、「自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げる」(同16:13)とあるように、何か大切なことを人々に知らせる、あるいは弟子たちと共に、むしろ弟子たちの内にいて働くのだとされています。これらは皆、イエス自身が間もなく弟子たちと共にはいられなくなるということを前提にして、しかしそれは見捨てるのではない、別の助け主としての「真理の霊」が遣わされるのだという約束の文脈で語られているのです。
ところが肝心のヨハネ福音書には、イエスが天に昇られるとか、弟子たちから離れるとか、そういう別れの場面、間もなく弟子たちと共にはいられなくなるという場面がないわけです。復活のイエスが弟子たちに現れる場面はこれまで読んできたとおりです。それどころか、漁師に戻った弟子たちが夜通し働いて帰ってくる時に、イエスが朝食を用意して待っていて、一緒に食事をした場面まであります。でも、別れの場面はないのです。
ではヨハネ福音書は最後どうなっているのか。一番最後は福音書を書いたであろう「ヨハネ」という弟子のことで終わっています。ペトロとの比較でこの弟子が「自分が書いた」と告白して終わります。だから、物語としての終わりではなく、いわば付け足しです。更に面白いのは、ヨハネ福音書には「終わりだろうな」と思わせる最後のセリフが2箇所登場するのです。一つは20章の終わり、もう一つは21章の終わり。ヨハネ福音書は21章で終わっているのですが、二回も「終わり」を感じさせる結びの言葉が書かれている。終わりの言葉は大体付け足しなので、その付け足される最後のお話しがなんだったかを見るのは大事ですね。20章は有名なトマスの話です。疑い深いと言われるトマスが、イエスを見て信じるというお話し。その決めのセリフが「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(20:29)です。一方21章はペトロとイエスの対話です。3回も「イエスのことは知らない、関係ない」と否定したペトロに対して「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」と3回尋ねられる場面です。ペトロは3回も聞かれたので失望し、「あぁ、イエスはわたしの裏切りを赦していないのだ」と思ってしまうのですが、イエスはそうではなく3回繰り返すことによってペトロの過ちを3回赦したわけです。そして決めのセリフが「このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。」(21:19)です。
すると、ヨハネ福音書は最後の最後にこれを読む人たちに対して「見ないのに信じる人になって、イエスについて行く」ことを求めている、ということがわかります。これを読む人たちがそうなってくれることが、ヨハネ福音書の著者の希望であって、そのためにこれを書いたということです。
ヨハネが福音書を書いたのは元々の部分が紀元50年頃、最終的に今のように完成したのが学者によってさまざまですが、早くて50年、遅ければ紀元160年頃と見られています。いくつかのイエスのことばの中にはイエスと同時代を生きた人の言葉と見られるものがあって、それが50年頃ではないかと考えられています。でも、目的をハッキリとさせて今のように編集され完成したのは紀元100年を超えてのことでしょう。当然それを読む人たちの最も早い時代の人であっても、生前のイエスはいないし、復活を目撃した人もいません。ききづてに書かれているわけでしょう。しかし一方、イエスや復活のイエスが目の前にいなくてもイエスの出来事はちゃんと伝えられていて、それが出来たのは特定の才能のせいではなく、たくさんの人の心に燃えるものがあったからだとしか思えない。心を熱くする人たちがたくさん起こされてきたからだとしか説明できない。それが彼らに注がれた「真理の霊」のわざなのだと考えるのが一番しっくりくるわけです。
イエスの出来事をわたしたちに伝えてくれた人たちは、同時に、イエスが約束されたものを本当に受け取った人たちです。弟子たちと共に、弟子たちの内にいて働く「真理の霊」が与えられたからこそ、それは伝えられ、「真理の霊」もまた伝えられ、次々にそれを受ける人たちが続いてきたのです。それが今、わたしたちの目の前にまで伝えられ運ばれてきているのです。
「しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」(同16:22)。復活の主が天に昇られる、しかしわたしたちは見えなくなることを悲しまなくて良いのです。「真理の霊」が与えられるとの約束は2000年間、多くの人たちによって証言されて今日まで来ました。であれば、「わたしは再びあなたがたと会う」という約束もまた、いつの日にか必ず実現するのでしょう。それまでは、「見ないのに信じる人になって、イエスについて行く」そういう一人でありたいと思います。